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概要
猩々(しょうじょう)を広辞苑で引いてみると「中国で、想像上の怪獣。体は狗や猿の如く、声は小児の如く、毛は長く朱紅色で、面貌人に類し、よく人語を解し、酒を好む。」とある。まさにこの広辞苑のような怪獣「猩々」が、現在でも愛知周辺で暴れまわっている。猩々を模した大人形の中に人が入って、子どもたちを全力で追い回し、竹の棒や団扇で尻を叩いてまわるというちょっと変わった、秋田のなまはげ的な芸能である。
猩々は、江戸後期から幕末にかけて、尾張の鳴海村から周辺地域へと普及していったものが現在に伝えられている。この猩々の歴史に関しては「笠寺猩々保存会」のホームページに詳細な考察がある。
名古屋周辺の各地区で伝えられていた猩々だが、近年では地域の担い手も減少傾向にあった。2005年に名古屋で愛・地球博が開催され、笠寺の猩々が地元の芸能として出演することになり、それをきっかけとしてできたのが笠寺猩々保存会だ。
中心となったのは久野充浩氏。久野氏は、若い頃から猩々の作り方を研究し、「一閑張り」という古くから伝わる技法を習得。現在でも猩々の製作・修復に取り組んでいる。保存会に集まったメンバーは地域で猩々を被るボランティアをしていた若者たち。現在では、名古屋市南部を中心にいろいろな祭りやイベントで活躍している。
笠寺猩々保存会は名古屋市南区の笠寺が拠点だが、今回は豊田市にある高岡神明宮の例大祭に保存会が出張で活動している様子を取材した。高岡神明宮にも猩々大人形が伝わっており、その修理を久野氏に依頼したことが縁となったとのことだった。
取材記
猩々のことを知ったのは、愛知で神楽のお囃子などを実践・研究している新美優さんを介してだった。新美さんとは花祭りの時にお会いして、その後もTwitterでやりとりしていたところ、猩々の話を教えてもらい、さっそく足を運んでみた。新美さんが所属する笠寺猩々保存会の出張公演で、豊田市の高岡神明宮例大祭で猩々をやるというのだ。名古屋駅につき、赤くてかわいい三河線で若林という駅までいき。そこからえっちらおっちら30分ほど歩いたところに神明宮はあった。周りはトヨタ関連の施設と田園風景が広がっている。想像していたよりもかなり立派な神社だった。付近の神社を合祀してできたらしく、この神社にも猩々の大人形が伝わっているのだが、担い手が不足しており、現在は笠寺猩々保存会に実演をお願いしているのだという。
新美さんとも再会し、会長の久野充浩さんに挨拶。とても気さくな方で、猩々にそっくりなことにびっくり! そして、笠寺猩々保存会の面々も若い。20代、30代の若者たちが集まって祭りを楽しみながら猩々に取り組んでいる。お囃子にも力をいれていて、お祭りの前に、神明宮の奉賛会の方々といっしょに演奏し、意見交換などお囃子の交流を行っていたのも印象的だった。昼過ぎになっていよいよ猩々の出番である。境内から少し離れた場所に子どもたちが集まっており、そこに猩々軍団が乗り込んでいく。キャーキャーと騒ぎながら逃げ惑う子どもたち、全力疾走で追いかける猩々、それをにやにやしながら眺める大人たち。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図である。「あれ、昔私怖かったのよねぇ」と奥様方が話していた。神明宮に古くから関わっている方も昔見た猩々の思い出を子どものように目を輝かせながら語っていた。世代を越えて共有される猩々の記憶を、今に繋げる笠寺猩々保存会。笠寺での本番は10月とのこと、ぜひ足を運びたい。(西嶋)